クラウドクレジットの運用報告会と運用レポートのまとめ:その1の続編書こうと思ってたんですが、その前にちょっと言いたいことがあるのでそっちを先に書きます。
キングコング西野の「お金の奴隷解放宣言」はただの僻案だ、という話です。
僻案についてはこれを読んで下さい。
この対談では「どういう言葉を使うか」という文脈で、「こういうふうであるべきという『警察行為』に走ってしまう人がいるが、まず自分が一番いい思う言葉を話したらいいんじゃないか」と話しています。
そして、日本語の仮名遣いがすごく乱れていた鎌倉時代に藤原定家が「古い文献を自分で調べたらこうだったから、自分はこうするよ」という「僻案(へきあん)」を出したら「自分もそうしたい」という人がたくさん出てきてみんなが「定家仮名遣い」を使うようになったという例を出しています。
「僻」というのは「つまらない、くだらない」という意味だそうです。なので、「皆さんは好きに書いてください。私は僻案、つまらない案の仮名遣いで書きますよ」というのが、結果的に広まったということだそうです。
いいでしょう?
みんながこういう考え方だったら素敵な世の中になると思いませんか?
「いろいろ考えたんだけど、僕はこれでいこうと思うんだ」
「あ、それいいね」
「私はここをもう少しこうするといいと思うから、こうしてみようと思う」
「なるほど」
「そうじゃなくて、全く違うこっちがいいと思うんだよね、だから自分はこれで行くよ」
「へー、結果教えてね」
……それで良くないですか?
みんながそれぞれ自分で良いと思うことをするのが普通の世の中。批判されやしないかビクビクする必要がない世の中。
最近、キングコング西野さんのお金の奴隷解放宣言が話題になりました。
そしてそれに対していろいろな意見が出ました。
「それって単なるフリーミアムっていうビジネスモデルだよね」みたいなどっちでもいいツッコミから「無料でいいという認識を広めることになってよくない」とか「クリエイターをバカにしている」みたいなコメントまでいろいろ出て炎上しまくってました。
そしてそういうのを見ててあたしが思ったのは「いいじゃん、僻案としてやってるだけなんだから!」でした。人の僻案にケチつけるなんて不毛なことに時間割いてないで、自分の僻案どうするか考えるべきなんじゃないの?と。
彼の僻案が前例のあるフリーミアムのアレンジだったとか、僻案の説明の仕方が人を見下した感じがしてムカついたとか、そういうのに突っ込みたくなる気持ちも分からないでもないけど、その辺はどれも本質的な話じゃありません。彼の人間性とか受け止め側の人間性の問題です。公の場で議論したって意味がない話です。
クリエイターの仕事の対価っていう視点については、あたしは前にも書いたように専門スキルに対価が支払われないようなケースには怒ってるので、言いたいことは分かります。
専門スキルにはお金を払うべきだし、専門スキルがある人はお金を要求するべき
でもこのケースは違うでしょう?
絵本のプロデューサーである本人と出版社が、関係者に然るべき報酬を払ったのち、印税という出来高で報酬を受ける自分たちが納得して行っていることなんだから。
あるクリエイターが何かを無料で提供すると、それを前例として他のクリエイターに無料提供を要求するケースが出てくるというのはクリエイターが雇われクリエイターだった場合はあり得ると思います。だからあたしは上の記事でも専門スキルがある人は対価を要求すべきと言っています。
でも『えんとつ町のプペル』を前例として「うちも絵本を出版して一部無料で提供したいから安い報酬で請け負ってね」ってクリエイターに言ってくる出版社が出てくると考えるのは若干考え過ぎでしょう。もちろんそうなったらその時点では問題だと思うし、その場合はクリエイター全員が立ち上がって怒るべきです。でも、そうなったらの話です。
「お金を払わなくていいんだと子供が学んでしまう」というのもね、狭い視点です。もしかすると他のことを学ぶかもしれないでしょう?「世の中には弱い者を助けてくれる人がいるんだ、自分も大きくなったらそうなろう」って思う子供もいるかもしれないじゃないですか。
キングコング西野の「お金の奴隷解放宣言」はただの僻案です。彼が自分なりに考えていいなと思ったことをやってるだけです。本を買いたい人は買えばいいし、自分もやりたい人は真似すればいいし、賛同できない人は彼とは違ったことをすればいいんです。
バッシングなんて必要ないでしょう?
あたしはそんなことしてないで自分の僻案考えます。
真似したい人は真似してください。賛同できない人はスルーしてください。これが今日の今村の僻案です。